啐啄同時

若手研究者を応援するオヤジ研究者の独白的な日記です。

東日本大震災の被災の本質

 東日本大震災の被災地を訪れて一番に感じるのは、ご家族のどなたかを失くなされている被災者の多くの方々に対する共感に、どうしても限界があるように思われる点です。これは、亡くなった方々に対する「実感」が十分に共有化できていないところに起因しているのではないかと思い始めています。
 多くの被災者の方々が大切なご家族を失くされていますが、一般的な意味で本当の意識の共有化には限界があることは、もちろん、よく分かっています。しかし、それ以上の問題があるように思うのです。
 2年前の2011年3月11日の大津波やそれによって流されいていく家屋や建物そして車の映像や写真は、確かに心に深く刻み込まれるように何度も見ています。しかし、その家屋や建物にそして車の中に、亡くなった多くの人々がいたという実感を十分に持ちえていないように思えるのです。
 個人の尊厳やご家族の心情を配慮して、あるいは日本人の「死」に対する倫理観から、ご遺体の映像や写真は徹底的に除外され、まったく報道されませんでしたし、現在も報道されていません。
 しかし、生き残ったご家族の方々はその状況に直面し、それでなくても尋常でない家族の死に向き合わねばならなかったのです。そして、大切な人を突然に失くした喪失感だけでなく、その後の対応に否応なく対処しなければならなかったのです。そういう悲痛な体験に、他の人からの見聞なども含めて間接的にさえ、その意識共有が十分にできていないところに問題があるように思います。
 被災地に直ち派遣された警視庁の人によれば、数えきれないご遺体が泥でまみれ、津波で流される途中にぶつけられたとみられる数々の複雑骨折の跡を見るに、その遺体置場の裏戸でやり場のない怒りと悲しみで泣け叫んでおられる多くのご家族の人達にかける言葉も見つからず、そして停電や決定的な物資不足の中で、ご遺体のお顔の泥をぬぐって少しでもきれいにしてあげるのが、せめて出来る精いっぱいのことであったと証言しています。
 もしそのような現実をもっと知っていたら、ご家族や友人を失くされた被災者の方々と、その思いの一部でももっと深く共有化できたと思うのです。

 *2013052603*日本人の「生死」観
 現在の日本人の「死」に対する過剰の恐れや不安、つまり「生死観」の問題を少し考えてみましょう。
 日本人の「死」に対する感性に大きな変化があると言われています。戦前の日本人には、もっと「死」を身近なものとしてとらえ、さらに言えば「死」と向き合いながら生きていたといいます。また、多くの家族の死は自宅で見守ることが多かったのです。一方、現在の病院死は全体の8割を超え、「死」はできればその直面化をできるだけ避けていきたいと思うように変わってきたというのです。
 日本経済新聞2013年5月25日(土)夕刊「一日を大事に 反省を込めて 〜死を迎える前に カール・ベッカーさんに聞く〜」では、この日本人の「生死観」の変化を見事に指摘しています。東日本大震災の多くの「死」に対する日本人全体の共有感の欠如に関する記載はありませんが、老齢化社会による「死」との遭遇機会の多さもあって、この日本の「生死観」の問題は、小学校教育から始めなkればならない重要な問題だと説きます。
 しかも、比較宗教学者カール・ベッカー氏は、「老・病・死をどう乗り越え消化できるか」の知恵が、災害が多く死が身近だった日本の歴史に潜んでいるというのです。「宮本武蔵二宮尊徳鈴木大拙などはみな死を視野に入れた生き方をわれわれに語って」くれるといいます。