啐啄同時

若手研究者を応援するオヤジ研究者の独白的な日記です。

建築と科学研究の共通点

日本国外にいることもあって本編なども見れていないのですが、別の解説文などを読み合わせますと、どうも「建築の無力さ」というのがひとつのテーマになっているようです。
建築のことはよく分かりませんが、科学研究を行っていますと、「科学の無力感」に苛なやまされることがよくあります。技術開発と異なって、「理解する」ことを主目的とする科学研究は、「役に立たない」ことが多々あります。
ノーベル物理学賞を受賞した小柴先生が、数年前NHKのラジオのインタビュー番組に出ていたときのことを思い出します。
アナウンサーが、待ち構えていたかのように、放送の最後のまとめに入ったときの質問でした。
「小柴先生、先生のご研究は普通の人達にとってどんな役に立つのでしょうか?」とアナウンサー。
「役に立ちません!」と、キッパリと小柴先生。
「そうですか。今役に立たなくても10年後には役に立っているということはありませんか?」と、畳みかけるように聞くアナウンサー。
「いや、役に立ちません!」と、素っ気ない小柴先生。
「では、100年後はどうでしょうか?」と、なんとかまとめたいアナウンサー。
「いやあ、100年後も役に立っていないと思いますよ!」と、小柴先生。
もう為す術もなくなったアナウンサーが、そのままインタビューを終了して、思わず苦笑したことを思い出しました。
科学研究は、ある考え方を提示することができます。その考え方は、直接に役に立たなくても、人々の考え方を根底から覆すことも可能です。例えば、コペルニクスガリレオ・ガリレイは、「それでも、地球は回っている」と言ったと言われているように、太陽が地球の周りを回っているという「天動説」に対し、地球が太陽の周りを回っているという「地動説」を唱えました。しかし、20世紀になって、アインシュタインは「どちらが回っているかは、どちらを座標の原点にするかだけの違いで、相対的なものだ」と喝破しました。
生命科学において提示される考え方は、基本的に「生命観」と言えるものです。まさに世界の考え方や見かたは「世界観」で、人の生き方つまり「人生観」に大きな影響を与えます。人は、その人生観で、実に壮大な貢献をしたり、地道ながら真摯に生きていったり、ときとして自らの命を閉じてしまう道さえ選びます。つまり、その考え方はとてつもなく大きな影響のあるものです。
100年後さえも具体的な市民生活に役に立っていないかもしれない「物質とは何か」という問いに対する考え方、でも人々が存立していく上で重要で基盤的な考え方を提示し、自分はどうしてここにいるのかといった根底的な問いへに対する解やそれに向かう考え方に大きな影響を与えることができるのが科学研究のように思います。
きっと、建築も人々に感動を与え、それによって人々の人生観や世界観に大きな影響を与えていると思われます。その意味においては、絵画や彫刻などの芸術はもちろん、虚構から真実に迫る小説を含めた文学も、人々の考え方に大きな影響を与えるという意味において非常に重要な役割を果たしていることは言うまでもありません。