啐啄同時

若手研究者を応援するオヤジ研究者の独白的な日記です。

ラマダンのもつ精神性

サウジの人達は、その規律遵守の程度には濃淡がありますが、基本的には非常に真面目に「お祈り」します。昨夜、その日のラマダン明けの最初の食事(「断食」は英語で「fast」で、これを破るのが「break」ですから、「breakfast」となり「ブレイクファースト」つまり「朝食」を英語では意味しますのが、この場合は時間的に夕食になります。面白いですね。)の夕食であるイフタールを研究室を行ったことをお伝えしました。その際、女子学生のイスラムの旦那さんが教授の隣に座ったので、
ラマダンで毎日大変でしょう!でも、どうしても水を飲みたい時もあると思いますが、誰も見ていなければちょっとくらい飲んだりすることもあるじゃないですか?」と教授。もちろん、アラビア語を話せないので英語で。
「それはないですね。」と旦那さん。
「でも、誰も見てなければ、ちょっとくらいいいような気も・・」と教授。
ラマダンは人のためにするものではありません!人が見てみようが見てまいが、神との関係で断食しているのです。したがって、自分の問題なのです。」と、旦那さん。

旦那さんの体型は、教授に似て小太りのいかにも大食漢然としているのですが、毅然として淡々と答える姿には感心しました。他の人に強制しない精神性こそ、自律的に規律を守るイスラム教徒ではないかと、敬意を抱いた次第です。
だんだん、イスラムの人達が、少しづつながら分かってきたような気がしました。
さらに、サウジの人達の生活の中で、このサラートは非常に大事な意味を持っていることも分かってきました。彼らの生活のイベントが、明らかに、この1日5回のお祈りが区切りとなっているのです。

つまり、1日5回のお祈りは、それぞれのタイミングに意味があるのです。これを理解するには、早朝から夜までの間にある5回のお祈り(サラート)に名前が付いていることを、知らなければならないことが分かりました。
これらについては、後日にご紹介してみます。