啐啄同時

若手研究者を応援するオヤジ研究者の独白的な日記です。

「STAP細胞」問題

本日、日本時間の午後1時から小保方晴子さんのNature誌へ出版されたSTAP論文に関する記者会見の生中継を、サウジアラビアでもインターネットを介してリアルタイムで見ていました。
 この問題は、日本の科学の信頼性を問う非常に重要な問題だと認識しておりますが、どうも「社会現象」化してきているように思います。
 科学の研究者には、「不文律」のようなものがあります。例えば、論文を投稿する場合には、懸賞のハガキなどとは異なって、「複数の異なる雑誌に同時に投稿してはいけない」ことです。これは、実は誰からも明示的には教えられません。「ああ〜、それはしてはいけないことだ〜。」と、研究室で感じ取るものとして無言で伝授されていきます。
 また、捏造や改ざんや盗作はもちろんですが、スーパーや百均で自分のお金で買った大学ノートでも、実験のことを書き込んだ「実験ノート」はその人の個人所有物ではなく、研究室の、ひいてはその研究機関の所有物と認定されます。したがって、基本的に「実験ノート」は許可無く個人的に研究室の外に持ち出すことはできなくなっています。
 さらに、厳しくやっている研究機関では、毎日その実験ノートに第3者が署名することが要求されます。これは、発明や発見の真実性や第一発見であることを担保するもので、特に米国が「先発明主義」をとっている間は、知財権の係争の時に非常に重要な証拠となるもので、第3者の署名はそれを限りなく補強するものになるからでした。
 この「個人」と「公」の切り分けのような不文律の習得は、育った研究室に強く依存するのが現実です。いわば、研究者としての「そだちの良さ」というのは、ひとつの研究室に長くいようがいまいが、多くの研究室を渡り歩こうが歩くまいが、このような不文律を身につけられるかどうかにかかっています。
 この不文律が十分に学べなかった環境におかれていたとすると、それは非常に不幸なことであった思います。
 ただ、研究者の世界では、一般には、30歳というのはまだ若輩で「掛けだし」の人が多く、これからまだいろいろなことを学び、発展して行く世代です。
 今回の「STAP細胞」の問題は、あまりに社会化現象化しすぎていて、研究上のことがコメントしにくい現実もでていています。