早朝Walkingのとき、柿の木が実をつけているのが目につきました。
だんだん都市化していく三島の街に、季節を告げてくれる風情ある景色が、かろうじて時折存在します。
そんなジグゾーパズルの断片のような景色で、「秋」をようやく感じられるというのも、ちょっと残念ですね。
すこし、韮山や大仁のほうに足を運ぶと、稲穂が垂れ下がるように実ったイネが黄金の絨毯のように、田んぼ一面に広がっています。そこまで行く時間もないのですが、忙しい時ほど、その季節を感じるレセプターを磨いておきたいものです。
「柿食えば 鐘が鳴るなる 法隆寺」(正岡子規)
そういえば、この有名な正岡子規の句に、2年前にNHKの「歴史秘話ヒストリア」で放送されたこの句に隠された謎の話を思い出しました。
正岡子規と親交のあった夏目漱石の句、
「鐘撞(つ)けば 銀杏散るなり 建長寺」
への感謝を込めた返句・連句であるというのです。
(参考)ブログ「doranyankoドラにゃんこの部屋」
(引用:http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=z3M1ODCQsJYJ&p=%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3+%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F+%E8%A6%AA%E4%BA%A4+%E6%9F%BF&u=genkinagochan.blog.ocn.ne.jp%2Fdoranyanko%2Fcat4978109%2F)
2009年12月2日(水)22:00, NHK G 「歴史秘話ヒストリア」
「友よ、泣かずに笑え〜正岡子規 闘病を支えた絆〜」
放送の骨子(抜粋)--------------
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。
実はこの句には大きな謎が隠されている。子規は一体、どんな状況下でこの句を生み出したのだろうか。当時の気象記録や子規の随筆などの資料から、名句誕生の舞台裏を探る。そこには、知られざる美少女の面影があった。
法隆寺ではなく東大寺南大門近くの旅館「角貞」で着想されたのではないか。松山で共同生活していた夏目金之助(漱石)から旅費の援助も受けて、1895(明治28)年10月下旬、東京へ戻る途中、脊椎カリエスの症状が始まっていながら、念願の奈良を訪れる。旅館では、
「大仏の 足もとに寝る 夜寒かな」
「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」
「長き夜や初夜の鐘つく東大寺」
を詠んでいる。
ほんに可愛い女中がやって来て、子規の大好きな富有柿を剥(む)いてくれた。その時の様子を子規は、随筆の中で回想している。
「下女は直径二尺五寸もありそうな大丼鉢に山の如く柿を盛りて来た。此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼女は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。そして女は障子を開けて外を見せた。」
美味しい美味しい柿。しかも可愛い娘が次々と剥いてくれる。冴え渡った静けき晩秋の夜に、趣深く鐘の音が響いている。子規が東大寺から斑鳩の法隆寺に移動したのは、到着して四日目。時雨(しぐれ)が続いて底冷えがするようで、病身には堪(こた)える。
「いく秋を しぐれかけたり 法隆寺」
一方、子規から学んだ夏目漱石の俳句に、
「鐘撞(つ)けば 銀杏散るなり 建長寺」
があり、この句の方が先に詠まれている。
このことより、番組はざっと次のように推測していると、私は理解した。旅費を援助してくれて、美味しい柿も沢山食べ、鐘の音の趣にも触れた。念願の奈良の旅を無事に終えた。世話になった漱石が、良い句を詠むようになったのは喜ばしい。
厚い友情に応え、返歌や連句の如くに詠もう。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。