啐啄同時

若手研究者を応援するオヤジ研究者の独白的な日記です。

日本人の無常観

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
 つまり、教授が意訳するとすれば、
「川の流れは絶えることなく動いており、同じ水が留まることがない。また、よどみに浮かんだ泡沫は消えては出来ての繰り返しで、長くとどまったことなど一度もない。世の中の人も家も、全く同じようなものである。」
 ということでしょうか。
鴨長明(かものちょうめい)の方丈記(ほうじょうき)のこの冒頭はあまりにも有名です。
 仏教思想の「無常」を、鴨長明歴史観の中で自分流に表現しようとしたら、「河の流れ」になったのでしょう。
 方丈記さえしらない若者も、この「方丈記」思想は、「「爽健美茶」のコマーシャルソングとしてよくしられる森山直太朗さんの「時の行方 〜序・春の空〜」という歌でも「自然の移ろい」に時の流れをたくし、故美空ひばりさんの「川の流れのように」では時の流れを河の流れにたとえています。」(注)と言われるように、日本人の心の奥底に、知らないうちに受け継がれているようです。
 この日本人の「無常観」を、その場がよければすべて良しとする「刹那(せつな)主義」とするのか、潔い諦めの境地としての「諦観(ていかん)主義」とするのか、無常だからこそ人のつながりを大事にして今を精一杯生きようという「人間的活力主義」でいくのか、その受け取り方によって大きく生き方が異なります。
 だれもが模範生のように「人間的活力主義」で生きたいと思うことはやまやまなのですが、知らないうちに、すねて甘えた「刹那主義」や「諦観主義」にどうしても陥ってしまいます。
 でも、とても始末に負えないのが「日和見主義」です。
とにかく、「色即是空 空即是色」(般若心経)の状態が本当の無常観でしょうから、「欲」を捨ててインセンティブをどう保つかという相反し相克する感性に、どう折り合いをつけるかは永遠のテーマなのかもしれません。
(注)Wikipediahttp://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98