啐啄同時

若手研究者を応援するオヤジ研究者の独白的な日記です。

北大路魯山人

「北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。」
「1883年(明治16年)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた[1]。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが[1]、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業。画家になるための学校に通いたいと申し出るが、家業を継がせるつもりだった養父母は激怒。京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出された。

奉公を終えて養父母宅に戻ったのち、実の母の居所が分かり会いに行ったものの受け入れられず、1903年明治36年)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、1908年(明治41年)から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。また、朝鮮総督府に書記として勤めた。

帰国後の1910年(明治43年)に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。

1915年(大正4年)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり[2]、会員制高級料亭を始めた。

1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。

1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変[3]のため横浜医科大学病院で死去。

1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。」<引用: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北大路魯山人 >